昭和の時代の芸能界から、ずっとテレビメディアで活躍されている”黒柳徹子”さん。
多くの方が子供の頃から大人になった現在まで、黒柳徹子さんの活躍をテレビで拝見していることでしょう。
みなさんが黒柳徹子さんに持っているイメージといえば、「徹子の部屋」でゲストを迎えてマイペースに喋っている姿だと思います。
特徴的な髪型に、超個性的な性格、そもそもどこから出てきて今の位置にいる方なのか、誰もが疑問に思ったことがあるでしょう。
今日は黒柳徹子さんというタレントさんが、若い頃からどのような経歴で、今の芸能界のトップに降臨したかを振り返ってみたと思います。
若い頃の黒柳徹子さんの美しさや、ずっと独身を貫く理由、結婚を考えた相手についても書いてみたいと思います。
目次
黒柳徹子の子供時代。家系図と若い頃からのキャリア
黒柳徹子さんは2022年現在、年齢は89歳になります。
生まれたのが戦前の1933年なので、第二次世界大戦を味わったのが中学生になる手前です。
現役でテレビメディアに出てるタレントさんで、戦時中の記憶がしっかり残っている方がいるのは意外ですね!
ただ、黒柳徹子さんの経歴や家系図をめぐってみると、戦時中にはしては恵まれた生活をしていたことが分かります。(父は中国に出陣し、母は八戸への果物や野菜の行商で生計をたててましたが)
黒柳徹子さんの父はバイオリストの黒柳守綱さん、母親は声楽科の黒柳朝さんと音楽一家であります。
徹子さん本人も幼少期にはピアノを習い、弟の黒柳紀明さん父親と同じヴァイオリニスト。
黒柳徹子さんの美形のDNAはお父さんからきてると思われます。
妹の黒柳眞理は元バレリーナで、美容家やエッセイストとして活躍しています。(23歳離れた末の弟は一般人のようで詳細は公表されていません。)
黒柳徹子さんの親族は業界の大物や有名人が多いことから、”華麗な家系図”なんて言われています。
父方の伯父 | 田口修二 | 戦後、シュウ・タグチ・プロダクション株式会社を設立。ドキュメンタリー映画を中心に自主制作 |
田口修二の息子 | 田口寧 | ドキュメンタリー映画作家 |
叔父 | 田口桜村 | 松竹キネマ撮影所の初代所長 |
母のはとこ | 村山槐多 | 画家 |
母方の祖父 | 門山周通 | 開業医 |
黒柳徹子は子供の頃から変わり者?経歴・学歴を年齢ごとに振り返る
黒柳徹子さんは幼少期から悪戯っ子だったようで、入学した名門・尋常小学校時代は、入学して僅か1年以内で落書きを理由に退学処分になっています。
その後に転校したトモエ学園では、先生が黒柳徹子さんの性格にマッチし、話をよく聞いてくれたり、とてもよくしてもらったそうです。
問題児のレッテルを貼られていた黒柳徹子さんですが、母親が子供の気持ちの分かる良い人で、小学校を退学になった後も、「退学になった」と伝えずに「他の学校へ行ってみましょう」と提案し、前向きな気持ちでトモエ学園へ転校できたそうです。
第二次世界大戦が激しくなると、青森県の諏訪ノ平(現南部町)へ疎開。
母親と青森県の諏訪ノ平(現南部町)へ疎開する際、青森駅で一夜を明かそうとした母に、徹子さんが”途中の八戸までの汽車に乗る”とわがままを言い、仕方なくワガママを聞いた結果、青森の空襲を逃れたという奇跡的なエピソードがあります。
疎開が終わった1年後には名門・女子大学「香蘭女学校」に入学します。
1933年8月9日 | 0歳 | 東京府東京市赤坂区(現・東京都港区)乃木坂に生まれる。 |
1940年 | 7歳 | 落書きが理由で尋常小学校(現:公立小学校)を1年生の時に退学。「トモエ学校」に転校。 |
1945年4月 | 12歳 | 東京大空襲をきっかけに青森県三戸郡(現・南部町)の諏訪ノ平に疎開。 |
1946年 | 13歳 | 香蘭女学校入学(5年制の中学・高校) |
1951年 | 18歳 | 東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学音楽学部声楽科)入学。 |
1954年 | 21歳 | ラジオドラマ『ヤン坊ニン坊トン坊』(1954年 - 1957年)で主演。 |
1958年 | 25歳 | NHK放送劇団に所属。テレビ女優第1号としてNHK入局。「海は生きている」で女優デビュー。 |
1958年 | 25歳 | 『第9回NHK紅白歌合戦』で自身初となる紅組司会を務めた。 |
1959年 | 26歳 | テレビドラマ「夜の仲間」で初出演。 |
1961年 | 28歳 | 第1回日本放送作家協会賞・女性演技者賞を受賞。 |
1971年 | 38歳 | 1年間ニューヨークへ留学し、セントラル・パーク西隣のワンルームに生活する。留学中に洋服と和服の両方に合う”タマネギヘア”を須賀勇介と考案。 |
1976年 | 43歳 | 「徹子の部屋」スタート。 |
1978年 | 45歳 | 「ベストテン」スタート。 |
1986年 | 53歳 | 『世界・ふしぎ発見!』スタート。 |
2009年 | 76歳 | 有吉に「クソババア」とあだ名を付けられる。 |
若い頃の黒柳徹子。名門女子大から人気女優・タレントへ
黒柳徹子さんは東洋音楽学校声楽科(現在の東京音楽大学音楽学部声楽科)に入学し、両親と同じ音楽の道に進もうとしますが、オペラの歌詞を覚えることができず、挫折します。
しかし、オペラを諦めた後に、子供に人形劇や絵本を読み聞かせることが上手な母になるためにキャリアを変え、その後に女優として大成功を収めます。
黒柳徹子さんは応募者6000人のNHK放送劇団のオーディションを受け、見事に合格。
劇団に所属した後は、売れっ子女優として活躍します。
新人時代から注目され、週8本ものドラマに出演していたこともあったそうです。
あまりにも売れっ子で忙しく、多忙で倒れ、1ヶ月の入院を余儀なくされたそうです。
黒柳徹子さんがすごいのは、若くして女優として成功しただけでなく、司会者としてのポジションも獲得したことです。
若干、25歳にして紅白歌合戦の司会者を務めると、中堅になった80年代、ベテランになった2010年代にも紅白の司会を務めました。
当時は女優上がりのミーハー人気だという目もありましたが、27歳で「夢で逢いましょう」の司会を担当すると、個性的な話術で世間を虜にし、司会者としての実力も証明してみせました。
若い頃の黒柳徹子さんは司会などのタレント業と女優業を並行して行い、国民のほとんどに認知されるスターでありました。
留学時代の黒柳徹子。若い頃の美しさのピーク?
黒柳徹子さんといえば、あの個性的な玉ねぎのような髪型が印象的です。
実は、あの玉ねぎヘアーは彼女が30代後半にアメリカ留学した際に、現地の日本人ヘアメイクアーティスト・須賀勇介と考案した髪型だったのです。
黒柳徹子さんは1970年(当時37歳)に出演したミュージカル『スカーレット』で、作曲家のハロルド・ロームさんと仲良くなり、その縁で彼の夫人であるフローレンスさんから、「面倒見てあげるから、ぜひニューヨークにいらっしゃい!」とニューヨークへの留学を誘われたのです。
以前に黒柳徹子さん本人がインスタグラムに若い頃の留学時代の写真をアップして話題になっていました。
ちなみに、この玉ねぎヘアーの本質は、”和服と洋服の両方に合う髪型”です。
1970年に、これほど洗練されてて美しい日本人女性がいたなんて感動的ですね!
ちなみに留学当時にニューヨークで和服を着ると、現地のアメリカ人が多く集い、注目の的だったそうです。
インスタで黒柳徹子さんは、
NY5番街で、振袖姿で立ってる写真
これは、イースターパレードに参加した時のものです。
パレードに参加してたニューヨークの人たちみんなが、一緒に写真を撮りたいって、大変なことになったの。
翌日のニューヨークの新聞に、無名の私が、大きく掲載されてました(笑)。
この着物は、母が、東京のどこかの古着屋さんで見つけて、ニューヨークに旅立つ時に、私に、プレゼントしてくれた、結婚式用の振袖です。
私は、ニューヨークの大きなパーティにお呼ばれした時には、この一張羅で必ず出かけました。
「海外のパーティーには、絶対に着物!」が、いいです。
パーティー会場のみんなが、「綺麗ね!」って褒めてくれたり、話しかけてくれたり、お友達もたくさんできました。
と綴っていました。
ちなみに1971年には留学を終えて帰国しましたが、ちょうど日本に初めてパンタが来ていたそうです。
黒柳徹子さんは現在までに大のパンダ好きで有名ですが、アメリカ文化を学び、時期的に新しい刺激が多くて楽しかったでしょうね!
黒柳徹子の結婚と彼氏。海外の恋人と旦那のような友人たち
黒柳徹子さんはすでに高齢でありますが、現在までに結婚したことが一度もありません。
若い頃から美人で面白くてモテモテで、結婚を考えた相手もいたみたいですが、結局は仕事を選んでしまったそうです。
黒柳さんが最も結婚と近い交際をしていたのは、留学中に知り合った音楽家の男性です。
遠距離で年に1、2回しか会えなかったみたいですが、交際は彼がスイスで死去するまで40年以上も続いたそうです。
その当時の彼氏は、過去に「徹子の部屋」にゲストで出演したことがある、ブルガリア人のピアニスト、アレクシス・ワイセンベルク(Alexis・Weissenberg)さんではないか?と言われています。
当時からほお寄せあったりして距離感が近く、多くの関係者がふたりの交際を噂していました。
黒柳徹子さんの書籍では、彼氏にパリに来てほしいと誘われたことがあったと綴られていましたが、アクレシスさんは仕事の都合上フランスにいる時間が長かったので、彼が黒柳さんの彼氏であったのはほぼ間違いないとされています。
永六輔とジャニー喜多川が黒柳徹子にとっての旦那だった?
結果的に生涯独身を貫いている黒柳徹子さんですが、業界には付き合いの長い親友のような方が大勢します。
黒柳徹子さんの友人関係は男女関係なく、まるで旦那さんのような存在だった人もいます。
有名なのは、永六輔さんとジャニー喜多川さんです。
黒柳徹子さんは永六輔さんともジャニーさんとも、まるで夫婦のように仲良しだったそうです。
永六輔さんは最愛の妻が死去した後に、「俺は黒柳徹子と結婚するかも」と漏らしたこともありました。
ジャニー喜多川さんは、彼が死去した後に黒柳徹子さんが「まるで旦那が亡くなったみたい」とコメントをしていました。
黒柳徹子さんは仕事に夢中で婚期を逃してしまいましたが、それに変わる素敵な友情をたくさん育んできたということです。