デヴィ夫人の若い頃と本名(ハーフではない)。年齢で昔をまとめ。娘/孫と資産

90年代から日本のテレビメディアで活躍されているタレントのデヴィ夫人。

デヴィ夫人がインドネシアのスカルノ大統領の夫人だということは周知の事実です。

ただ、若い子はデヴィ夫人の若い頃の美しさや、実はハーフではなく純日本人であることを知りません。

また、デヴィ夫人がどのような経歴で大統領夫人の地位を手に入れ、その後の災難から生き延びたのか、彼女の数奇な人生についても知らない人は多くいます。

今日はデヴィ夫人の若い頃から現在までの経歴と、大統領夫人として、夫の間に生まれた子供や、孫、資産について書いてみたいと思います。

デヴィ夫人は両親共に日本人でハーフではない!本名は「根本七保子」(旧姓)

デヴィ夫人は色白で大きな瞳が特徴的ですが、実はハーフではなく純日本人です。

名前が「デヴィ・スカルノ」で、インドネシアの大統領夫人だったというステータスなので多くの方が外国人、もしくはハーフだと思っていますが実際は違うのです。

デヴィ夫人の本名は「根本 七保子」です。

本名 ラトナ・サリ・デヴィ・スカルノ(旧姓:根本 七保子)
生年月日 1940年2月6日
出身地 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布
家族構成 父(兵七郎)・母(政子)・弟(4人家族)

父親は大工をしていた「兵七郎」さん、母親は「政子」さんで、父も母も純日本人であります。

ご両親の写真を見てると、当時にして二人とも目がパッチリしてて美形だったことがわかるので、デヴィ夫人はその美形の遺伝子を受け継いだだけということになります。

デヴィ夫人の子供時代が美少女!英語と絵が得意だった

デヴィ夫人が生まれたのは戦前の1940年で、3歳から5歳までに第二次世界大戦が激化しました。

もともと普通の家庭だったデヴィ夫人の実家ですが、戦争と父が目を悪くした影響で、家は貧しくなります。

母も足が悪かったということで、内職で家計を支えていたそうです。

デヴィ夫人は幼少期から両親の苦労してる姿を見てるので、子供の頃から母の内職を手伝ったりと、健気に家計を支えました。

子供の頃に摘んできた野草が食卓に並べられた、家に入ってきた鳩が丸焼きになって食卓に並んだなど、貧困エピソードは多くあります。

そんな貧しかった実家ですが、デヴィ夫人は絵の才能に溢れ、周囲から”天才だ”ともてはやされると、母は一生懸命に稼いだお金で月謝を払い、デヴィ夫人に鼻出大学の先生を付けて絵を学ばせていたそうです。

貧しい家庭ながらも、子供が親を考え、親も子供のことを考える、とても素敵な家庭だったことがわかります。

ちなみに、デヴィ夫人は今でも趣味として絵を描いているそうです。

デヴィ夫人の学生時代。高校で就職とバイトの掛け持ち

デヴィ夫人は勉強が得意で、特に英語に関しては学年で一番の成績でした。

美形で絵が得意で学問・語学も優秀ということで、デヴィ夫人はもともと”良い女”だったことがいえます。

中学生の時点で大人の色気があり、当時から大人の男性からモテていたそうです。

高校は定時制に進学し、同時に家庭を支える為に千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)に就職しました。

保険の仕事のお昼の1時間休憩の合間、近くの喫茶店でアルバイト。さらに休日の土日はコーヒーショップでアルバイトをしていたという過酷ぶり。

また当時から芸能人になりたい志があったのか、「東芸プロダクション」に研究生として入団し、新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演するなどしてます。

家族を養うために普通の学生生活を投げ捨てたものの、自身の夢もしっかり持っていたということです。

しかし、16歳の頃に父が死去すると事態は一変し、今まで以上の稼ぎが必要となります。

母と弟の為に夜の仕事に。国際的なお店で英語力を磨く

デヴィ夫人はアメリカ人宝石商のジェイムズ・ベイカーさんと知り合うと、都心の色々な高級店に連れて行ってもらうようになり、赤坂にある有名高級クラブ「コパカバーナ」に出入りするようになります。

父が亡くなって家計が苦しくなった時期に、出入りしていた「コパカバーナ」のオーナーだった長尾久子さんに気に入られ、「コパカバーナ」で働くことになります。

デヴィ夫人が働いた「コパカバーナ」は普通のクラブとは違い、海外のゲストが多く、とても国際的なお店でありました。

お客さんの90%が外国人。世界の社交場のような名声を得ていて、当時の大学新卒の給与が1万ぐらいだった時代に、その時のテーブルチャージは、フランク・シナトラが歌った夜は1人10万円。

デヴィ夫人がお店で働きたいと思った理由は、母と弟に楽をさせてあげたいという経済的な事情と、”英語力を研いで国際的に活躍したい”という想いがあったからです。

結果的に、後に海外での仕事の機会に恵まれ、海外の大統領夫人というポジションを獲得することになります。

ちなみに、デヴィ夫人はお店では圧倒的な美貌で人気者となり、”プリンセス”の愛称で親しまれていたそうです。

スカルノ大統領の秘書から第三夫人へ。若い頃のデヴ夫人のサクセスストーリー

国際的な感覚を磨きたいという想いで働いていたデヴィ夫人ですが、お店に勤めて2年目の1959年に開発援助に伴いインドネシアに渡ることとなります。

当時にしてまだ19歳でした。

デヴィ夫人はインドネシアに渡ると当時のスカルノ大統領の元で秘書として働くことになります。

スカルノ大統領はデヴィ夫人の美しさや気配りの素晴らしさに惚れ、二人はすぐに恋人関係となります。

そして、秘書として働いて3年後のデヴィ夫人が22歳の頃、二人はついに結婚を果たします。

22歳の若さで大統領夫人に!失脚後も側で支えた

スカルノ大統領からデヴィ夫人へのプロポーズの言葉は「私のインスピレーションとなり、力の根源となって、私の人生の喜びとなってください」。

飛行機でバリに向かってる途中、飛行機から夕暮れを眺めていた際に言われたそうです。

そして、デヴィ夫人はスカルノ大統領の第三夫人となったのです。

ただ、同時期に日本メディアがナイトクラブの売れっ子がインドネシアの大統領と結婚したことを面白がり、デヴィ夫人の自宅にしつこく取

結果、デヴィ夫人の実家の母は病気に倒れて亡くなってしまい、さらに弟も母を追うように自死してしまいました。

デヴィ夫人は、当時のことを人生で一番辛い時期だと後に語っています。

結婚してすぐに子供は生まれませんでしたが、スカルノ大統領が失脚した後にも支え、その後に子供が誕生しています。

26歳で娘・カリナを出産も不仲?孫・キランの存在で和解

1962年にスカルノ大統領と結婚して第三夫人となったデヴィ夫人ですが、そのわずか3年後の1965年に軍事クーデターが起き、スカルノ大統領は失脚してしまいます。

結婚してすぐに子宝に恵まれなかったデヴィ夫人ですが、大統領が失脚した後にも支え続け、失脚した2年後の1967年に長女・カリナを出産します。

出産はインドネシアではなく日本でした。

出産後、デヴィ夫人と娘・カリナはフランスに亡命しました。

これから幸せな家庭を築くはずでしたが、カリナさんが3歳になった1970年に、スカルノ大統領は死去します。

死因は病気とも暗殺とも言われており、詳細は不明です。

娘・カリナをフランスに置いてインドネシアで石油事業し不仲に?

デヴィ夫人と娘・カリナはフランスで親子二人で仲良く暮らしていました。

しかし、デヴィ夫人は娘が11歳の時に、単身でインドネシアに渡ってしまいます。

フランスに置き去りにされたカリナさんは、当時から母のことを憎み、大人になった後も不仲状態だったそうです。

デヴィ夫人が娘を置いてインドネシアに向かった理由は、石油事業に関わるため、そして大統領の遺産を相続するためだとされてます。

本当はカリナさんも連れき行きたかったのですが、軍事クーデターがあって荒れていたインドネシアに娘を連れて行くのは危険だと感じ、あえてフランスに置き去りにしたそうです。

娘・カリナは結婚し出産。イケメンすぎる孫のキラン

母と別々で暮らしていたカリナさんですが、しっかりと学校に通い、教養を身につけ、素敵な大人の女性に育ちます。

カリナさんはニューヨークの’Vivienne Westwood”で働くなど、現代的で洗練された環境で暮らしていました。

そんなカリナさんは2005年に2005年に大手金融機関「シティバンク」の欧州・中近東・アフリカ地区CEO(最高経営責任者)である、オランダ人のフレデリック・F・シーガスさんと結婚を果たします。

そして、2007年にデヴィ夫人にとって孫にあたるキラン君を出産します。

孫のキラン君は信じられないほどの美形で、出産して1ヶ月後にキラン君を見たデヴィ夫人は「目が赤ちゃんではなかった。まるでイエス・キリストの目のようだった。」と綴っています。

キラン君がお気に入りのデヴィ夫人は、過去何度も自身のブログにキランくんを登場させています。

過去に日本のメディアにもキラン君は取り上げられたことがあります。

キラン君はただイケメンなだけでなく、中学生の時点で英語、インドネシア語、ラテン語、日本語、オランダ語、フランス語の合計6か国語話を操ることができるとして、とても秀才だと紹介されていました。

この孫・キラン君の存在が、不仲だった娘・カリナさんとの関係を良好にしたそうです。

カリナさんも現在になっては「なんで素敵な家を買ってくれたのに憎んでたのだろう」と、長く母に憎しみを持っていたことを今では後悔してるそうです。

デヴィ夫人の資産は?大統領の遺産と海外(フランス・ニューヨーク)や渋谷に不動産と石油事業

デヴィ夫人はインドネシアの石油事業に携わり、大金持ちになったそうです。

そもそも、スカルノ大統領の遺産を受け継いだ(相続してない説もあり)だけでも、一生遊んで暮らせるほどお金持ちであります。

90年代からは日本の芸能界で活動を始め、30年以上もトップメディアに出演し続けています。

現在も一流の社交界にも顔を出し続けているのは、元大統領夫人だからというだけでなく、デヴィ夫人本人も自分の努力で多額の資産を稼いだからだと言えます。

デヴィ夫人の渋谷の自宅は11億?海外の不動産と合わせて総資産60億ある説

たまにテレビメディアに登場するデヴィ夫人の自宅ですが、なんと場所は渋谷で11億の価値があるそうです。

また、パリやニューヨークに所有してる不動産など、総資産をすべて合わせると60億以上はあると噂されています。

そもそも売れっ子芸能人としての収入もあるので、デヴィ夫人の金銭事情は世間の想像以上に凄まじいことが想像できます。

幼少期から母の内職を支え、高校時代は定時制に進学し就職。仕事のお昼の休憩中や休日もバイトを続けるなど苦労した背景を考えると、今のデヴィ夫人が金銭的に満たされるのは、とても良い話のように思えます。

デヴィ夫人の若い頃の経歴まとめ

1940年2月6日 0歳 東京府東京市麻布区霞町(現在の東京都港区西麻布)に生まれる。
1946年 6歳 港区立笄(こうがい)小学校入学。
1952年 13歳 港区立高陵中学校入学。成績優秀で英語は学年で一番の成績。
1955年 15歳 東京都立三田高校定時制進学。家計を助けるために千代田生命保険(現在のジブラルタ保険)に務める。新東宝制作の映画『青ヶ島の子供たち 女教師の記録』(白黒映画)にエキストラ出演。
1956年 16歳 父死去。高校中退。赤坂の有名高級クラブ「コパカバーナ」で働く。
1959年 19歳 開発援助に伴いインドネシアに渡り、東日貿易の秘書としてインドネシア建国の父であるスカルノ初代大統領の元に就く。最初は普通の恋仲関係。
1962年 22歳 スカルノ初代大統領と正式に結婚。(4人の夫人のうちの第3夫人)。母親がマスコミの取材をストレスに死去。実弟が自殺。
1965年 25歳 軍事クーデターでスカルノ大統領失脚。
1967年 27歳 第一子の娘・カリナを出産(スカルノにとって8番目の子供)。デヴィはフランスに亡命。
1970年 30歳 スカルノ死去。遺産の相続は不明であったが、その後に第三夫人として財産分与されたとされる。
1974年 34歳 GORO』の創刊記念号で、写真家デイヴィッド・ハミルトンの撮影によるヌード写真を披露。
1980年 40歳 インドネシアへ戻り、石油関連事業を興した。
1991年 51歳 アメリカ・ニューヨークに移住。
1992年 52歳 コロラド州でセルヒオ・オスメニャ第4代フィリピン大統領の孫娘・ミニー・オスメニャに侮辱されたと激怒したデヴィがシャンパングラスでミニーの顔面を殴打し、“顔に37針を縫う大ケガ”を負わせ、傷害罪逮捕。禁固60日・罰金700ドルの実刑判決、34日間刑務所に収監された。

 

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