佐世保小6女子事件(加害者/辻菜摘)の現在。可愛い顔写真は嘘?被害者の御手洗怜美と家族

2004年6月1日に世間を震撼させた小学6生の少女による、同級生の友人への悪質な事件。

長崎県佐世保市立大久保小学校で発生した狂気的な事件であります。

現在までに加害者についてネット上では話題が多く、事件が長い歳月が経った今で事件を忘れられない方が多くいます。

今日は、事件の加害者と被害者の詳細や関係性、悲劇に至るまでの原因について整理して見たいと思います。

また、加害者の現在については、今でもネット上で多くの憶測が囁かれており、それらの噂についても書いて見たいと思います。

目次

佐世保小6少女事件。原因はコミュサイトと交換日記。加害者・辻菜摘と被害者・御手洗怜美

2004年6月1日に長崎県佐世保市にある大久保小学校で起きた、子供による凶悪な事件。

加害者の女の子・辻菜摘さんは、佐世保市の山間部に住む若干小学6年生の12歳でした。

事件後にネットに流出した写真にて「ネバダ」と書かれたパーカーを着ていたことで、当時からネット上では”ネバたん”の愛称で呼ばれていました。

当時からネット上で「可愛い」と隠れファンがいるようです。

名前 辻菜摘
あだ名 ネバダたん
出身地 長崎県佐世保市
生年月日 1993年
家族構成 父・母・姉・祖母。
小学校 佐世保市立大久保小学校
特技 ミニバスケチームに所属
趣味 パソコン。オカルト。アニメ。

辻菜摘さんは父が2歳の頃に脳梗塞で倒れて以降、両親で働き詰めで、とても寂しい幼少期を過ごしていたそうです。

また、家族と住んでいた山間部には子供がおらず、近所で一緒に遊ぶような相手もおらず、とても孤立した環境で育っていたことがわかっています。

父は孤独な娘を気の毒に思ってから、ある時期に辻菜摘さん専用のパソコンを買い与え、以降の彼女はネットに世界に入り込み、オカルト好きなパソコン少女となりました。

2003年の小学5年生の頃には本人の要望で小学校のミニバスケチームに入りましたが、1年後の2004年2月に母親に成績不振を理由に強制退部させられてしまいます。

バスケを辞めさせられた辻菜摘さんは、それ以降に学校での行動や言動がアグレッシヴになっていったそうです。

被害者・被害者・御手洗怜美。父は朝日新聞に務め2人の兄がいた

2004年の事件で命を奪われた御手洗怜美さん。

当時11歳の小学6年生でした。

小学4年生の頃に長崎から佐世保へ引っ越し、学校では映画研究クラブに所属し、加えて加害者と同じ大久保小学校のミニバスケットボールクラブにも所属していました。

名前 御手洗怜美
趣味 ミニバスケチームに所属(辻菜摘と元チームメイト)。学校では「映画研究クラブ」に所属。
生年月日 1993年
性格 明るくて人懐っこい

自宅は市中心部に近い支局の3階の支局長住宅で父親と次男の3人で暮らしていました。

長男は徳島県の大学へ進学していて、母親は事件の3年前に亡くなっています。

父・恭二 毎日新聞長崎支局に勤務
長男 徳島大学在学中
次男 中学3年生
玲美さん 佐世保市立大久保小学校在学
母親・直美 2001年頃に癌で死去

父は職場で人望も厚く、部下を自宅に招き一緒に食事をするなどし、家族と社員らは身内同然だったそうです。

怜美さんは人懐っこい性格で、社員らにも我が娘のように可愛がられていました。

また、猫や動物が大好きな心の優しい女の子で、先生たちからも評判が良い生徒でした。

加害者の辻菜摘さんとはバスケをきっかけに仲良くなり、自宅で一緒にゲームをしたり、パソコンをして遊ぶなどしたこともあったそうです。

怜美さんもパソコンに興味があり、パソコン少女だった辻菜摘さんは彼女にとってはパソコンの師匠のような存在でした。

加害者と被害者の因縁は複雑?交換日記の”next”とおんぶしての「重い」発言

加害者の辻菜摘さんと、被害者の御手洗怜美さんは同じミニバスケのチームに所属したことで親睦を深めました。

御手洗怜美さんの自宅に辻菜摘さんが訪問しゲームやパソコンをして遊んだこともありました。

パソコンに関しては辻菜摘さんが御手洗怜美さんに分からないことを教えてあげるなど、師弟のような関係でした。

御手洗怜美さんの兄も辻菜摘さんと何度か面識があるほど仲良しでありました。

二人の仲が拗れたのは、小学6年生になった後だとされています。

事件の2ヶ月前の5月上旬に、クラスメイトで流行っていた交換日記にて2人は揉めています。

揉めた理由は、辻菜摘さんが文章の終わりに「next」と次の人を指名して書くことが他の友達に真似された時です。

辻菜摘さんはnextを真似されるのを嫌がって「やめて」と言うと、他の友達が「ごめん」と辞める中、御手洗怜美さんだけが、

NEXTはみんなが使える表現ではないの? 絵文字ではないし、英語だからパクリではないような気がする。みんながやっていれば、当たり前になるのでは?」

と反論したのです。

さらに、同じ5月の下旬頃には、御手洗怜美さんが悪ふざけで辻菜摘さんをおんぶした際、御手洗怜美さんが「重い」と言ってしまったそうです。

辻菜摘さんは、御手洗怜美さんの冗談を深刻に受け止め、「失礼しちゃうわ」と怒ってしまったそうで、このやり取りから交換日記やコミニュケーションサイトでの揉め事に発展したとされています。

事件の直前。コミュサイト「カフェスタ」でアバター変更や初期化の嫌がらせ。被害者は友人や兄に相談

交換人気の「next」の件と、冗談で「重い」と発言したことが発端で、2人の関係はギクシャクしてしまいます。

その後に、仲間内で流行っていたサイト「カフェスタ」にて、事件の決定打となる出来事が起きます。

時期にして事件が起きる数週間前頃(2004年5月)です。

御手洗怜美さんがカフェスタ内で、辻菜摘さんのことを「言い方がぶりっ子」と書き込み

それを見た辻菜摘さんは御手洗怜美さんに頭に来て、彼女のアカウントに侵入し、プロフィールの顔部分をかぼちゃに変更するという仕返しをします。(仲間内でパスを教え合っていた)

最終的には、辻菜摘さんは御手洗怜美さんのアカウントを初期化するなど嫌がらせはエスカレートしていきます。

御手洗怜美さんは負けじと、

「チッマタカヨ。なんでアバターが無くなったりHPがもとにもどっちゃってるケド、ドーセアノ人がやっているんだろぅ。フフ。 アノ人もこりないねぇ。(゜∀゜)ケケケ

「荒らしにアッタんダ。マァ大体ダレがやってるかヮわかるケド心当たりがあるならでてくればイイし。 ほっとけばいいや。ネ。 ミンナもこういう荒らしについて意見チョーダイvじゃまた今度更新しようカナ。」

と書き込みしていました。

気丈に振る舞っていた御手洗怜美さんでしたが、引っ越し前の長崎時代の友達に傷心の手紙を書いたり、次男の兄貴に辻菜摘さんの件について相談するなど、かなり精神的に参っていました。

そして、直後の2004年6月1日に辻菜摘さんに教室に呼ばれ、被害を受けることになってしまうのです。

辻菜摘は御手洗玲美を学習ルームに呼び部屋を真っ暗な状態にし手で目隠し犯行(テレビドラマの真似)

友達同士の交換日記から始まり、冗談での発言で怒らせ、最終的にはネット上でバチバチにやり合った両者。

2004年の5月の内に2人の関係は完全にボロボロになり、翌月(6月1日)早々に悲劇が起きてしまいます。

辻菜摘さんは御手洗玲美さんを学習ルームに呼び出し、カーテンで部屋を真っ暗な状態にして、手で目隠しをして犯行に及びました。

首と左手をカッターで傷つけた後、辻菜摘は血まみれの服で凶器を手にしたまま自分の教室に戻り、担任に助けを求め事件が発覚しました。

↓2人の揉め事を時系列で書くとこのようになります。

2004年5月上旬 交換日記の「next」の使い方で揉める
2004年5月下旬 おんぶして冗談で「重たい」と発言し怒らせる
2004年5月下旬 カフェスタ内で悪戯され書き込みで対抗するなど揉める
2004年5月下旬 次男の兄に友人関係で相談したり、引越し前の学校の友達に傷心の手紙を書く。
2004年6月1日 事件が起きる

小学生にしては、かなり大人びた犯行内容で、当時世間は「そんなことをする少女がいるのか?」と驚愕していました。

実は辻菜摘さんはオカルト系の趣味があることで、サスペンス系のドラマが大好きでありました。

辻菜摘さんは事件の前日の5月31日に放送された「ホステス探偵危機一髪」内のシーンを真似し犯行に及んでいたのです。

辻菜摘の事件後。現在も可愛いと評判?養子と結婚で2度改名の噂

2004年6月1日に佐世保市小6女子事件が起き、その後の辻菜摘さんはどうなったのでしょうか?

当時、小学6年性だったということで、逮捕されることはなく、児童自立支援施設に送られました。

事件後の彼女について分かっているのは、2004年(12歳)に児童自立支援施設・国立きぬ川学院(栃木県さくら市)へ送致され、4年後の2008年3月(16歳)に施設を出ていることです。

2004年6月1日 佐世保市小6女子事件が起きる。佐世保警察署に移送。
2004年6月2日 佐世保児童相談所は加害者を家庭裁判所に送致。すぐに観護措置処分が決定し、その日のうちに長崎少年鑑別所に移送。
2004年6月3日 長崎少年鑑別所で川添・迫両弁護士と対面。精神鑑定は不要で、全く正常に見えたとコメント。
2004年6月23日 鑑別所の審判で辻菜摘の両親が遺族への手紙を読み上げ、彼女は大粒の涙を流し「どのように謝っていいのか」と話す。
2004年9月15日 国立の児童自立支援施設である国立きぬ川学院(栃木県さくら市)への送致が決定。
2004年12月 精神科医らと面会。「年齢相応の基礎知識が欠落」や「アスペルガー症候群の『対人関係の障害』の診断基準は満たさない」と意見が割れる。
2005年3月 施設内の分校・さくら市立氏家中学校うの花分教室で卒業式。(在籍は大久保小学校)
2005年4月22日 初の団体行事となる「羽黒山登山遠足」に参加。
2005年5月13日 施設の園遊会に参加。
2008年3月 施設内の中学校を卒業。児童自立支援施設を退所、社会復帰。

辻菜摘は病気ではなかった?対面した弁護士や精神医の意見は別れる

同級生の命を残酷な形で奪った加害者ですが、当初は精神的な病気が疑われていました。

主に、広汎性発達障害やアスペルガー症候群が疑われました。

しかし、その後に加害者少女に決定的な病気があるという報道はありませんでした。

事件後に辻菜摘さんと対面した2名の弁護士は、

「非常に幼いな、と。小学6年生なのに、見たところ小学4年生ぐらいの印象を受けた。この子があんなことを、と非常に意外な感じをもった」

「幼いという印象は、確かに私にもあった。背もそれほど高くないし、表情も幼い。ただ、付添人の選任届にサインしてもらった字は、しっかりした字を書いていたので、その意味では表情ほど幼くないのかもしれない

とコメントしており、等身大の小学6年性よりも幼く見える部分もあるが、決定的な害はなさそうとの見解でした。

その後に家庭裁判所で精神鑑定が行われ、

  • 対人的なことに注意が向きづらい特性
  • 物事を断片的に捉える傾向
  • 抽象的なものを言語化することの不器用さ
  • 聴覚的な情報よりも視覚的な情報の方が処理しやすい

とのことですが、特性は軽度で何らかの障害と診断される程度には至らないとし、”加害女児は情緒面で同世代に比べて著しい遅れがあるが、障害とみなすべきものではなかった”との決定で終わりました。

両親の加害者への手紙で号泣し謝罪するも施設在籍4年間で遺族への手紙はなし

事件後に辻菜摘さんは「お父さんとお母さんに迷惑をかけた。謝りたい」と話し、その後に両親が遺族へあてた手紙を読み聞かせた際は大粒の涙を流し「どのように謝っていいのか」と話していました。

辻菜摘さんは12歳にして親元を離れて施設で生活することとなりましたが、特にホームシックになることもなく、親の面会時も冷めた反応をしていました。

家族も彼女のことを、「一人で過ごすことを好む」と評しており、自分の世界観が強い少女であったことが分かっています。

施設では模範生であり、羽黒山登山遠足」に参加した際は、登山中に職員に体調を心配されると「はい、大丈夫です。頑張ります!」と元気よく答えたそうです。

ただ、施設に入って期間、彼女から被害者遺族への手紙は1通もなく、送っていたのは彼女の両親のみでした。

2008年に施設を出た後も遺族に会いに行くことも手紙を送ることもなく、現在の彼女がどこに住んで何をしているのかは不明です。

両親からの手紙も、彼女が施設を出て以降は途絶えてしまっているそうです。

辻菜摘は養子で「安倍希望」に改名?結婚し2度目の名前変更の噂。現在も可愛い女性の写真で本人が疑われる

辻菜摘さんは2008年に施設を出て以来、何も新しい情報がありません。

少年犯罪を犯した方は、基本的に社会復帰を阻害する要因を取り除く”とのことで、一切の個人情報が隠匿されますので無理もありません。

施設を出た後は法務省関係者と養子縁組をして名前が「安倍希望」に変更されたという噂がありましたが、それらはネット上でモー娘ブームにあやかった作り話だとされてます。(人気メンバー「安倍なつみ」と「辻希美」から適当に取っただけ)

また、辻菜摘さんはその後に結婚し、さらにもう一度名前が変わっている為、事実上彼女の現在の名前を特定するのは難しいです。

被害者の遺族も彼女と音信不通ということで、彼女の近況を知る術はありません。

しかし、一時期はネットで辻菜摘さん本人だと思われる写真が多く流出したことがありました。

”SNSで長崎県で同じ名前の特徴のアカウントを見つけた””地元で同じ名前の若い女性と会った”などの口コミもありました。

しかし、上記に書いたように、彼女の名前は既に「辻菜摘」ではなく、一時期噂された「安倍希望」もガセネタで、そもそも本名を知る人がいないので、これらの口コミは適当だと分かります。

流出した写真も本人だという証拠は1つもなく、ほぼ勘違いです。

本人だと噂され流出した写真は基本的に、

・ショートヘアー

・若い

・可愛い

の3つの共通点があります。

多くの隠れファンが現在でも彼女が可愛いと信じているということです。

辻菜摘の家族の現在。母と姉は栃木に引っ越し父とは離婚?

2004年の夏頃には施設に入った辻菜摘さん。

家族は事件の影響でバラバラになったとされてます。

事件当時、商業高校に通っていた姉は中退し、母親と祖母と一緒に故郷を離れ、辻菜摘さんが入所する施設のある栃木県に引っ越したとされます。

尚、姉は高等学校卒業程度認定試験(旧大検)に向けて勉強していたようです。

父は地元の長崎県に残ったそうですが、現在では目撃情報もなく、一部では自死したのでは?と心配する声も挙がっています。

また、別居したことで、離婚したことが濃厚と見られています。

施設に入居していた2004年から2008年は、辻菜摘さんの代わりに家族が被害者遺族に手紙を書いていましたが、2008年に出所して以来は手紙が途絶え、被害者遺族も辻菜摘さんの家族の近況がわからない状況であります。

御手洗怜美の遺族の現在。父も兄も後悔。本の出版やメディアのインタビュー

小学6年生にして亡くなってしまった御手洗怜美さん。

御手洗怜美さんの遺族の近況に関しては、コンスタントにメディアなどを通じて明らかになっています。

父親は毎日新聞佐世保支局長だったこともあり、報道側の職業意識と愛娘を亡くした父親との立場で揺れました。

娘の事件の後、連日のテレビや雑誌メディアで事件が取り上げられその際は、

「(娘である被害者の)名前や写真が出ると、事件を突き付けられるよう」

「勝手なことなのですが、『もう名前や写真を出さなくてもニュースや記事として成り立つのでは』 と思ってしまいます」

と悲痛なコメントをしていました。

その後も、父・恭二さんは娘が抱えていたトラブルに気が付かなったことに自責の念を抱き苦しみ続けました。

父は別の支部に転勤となり、家族は佐世保から福岡に移住しました。

兄は事件直前に妹から友人(辻菜摘)のことで相談。現在は結婚に億劫になる

御手洗怜美さんには2人の兄貴がいましたが、長男は徳島大学に在学中で一緒に住んでおりませんでしたが、次男は妹仲良しでした。

実は事件が起きる直前の5月30日頃に、妹に友人関係のことで相談を受けていたそうです。

次男は事件当時は中学3年生で、担任から突然呼び出されて事件を伝えるYahoo!ニュースの記事のコピーを手渡され、事件を知ってすぐに相談された相手(辻菜摘)のことだと分かったそうです。

次男の兄貴は辻菜摘さんと何度か面識があり、家にゲームしに遊びに来た時は”話しやすい子”という印象を受けており、または運動会ではビデオカメラを構えてる後ろから頭をポーンとイタズラをされたこともあったそうです。

近い対人関係の問題で、しかも直前に相談まで受けていたということで、兄貴には”妹を救えたかも”と長年後悔の念を引きずっているのです。

次男は事件の1年後の2005年から高校に進学しましたが、罪悪感から精神が乱れ保健室登校となり出席日数が少なく留年の危機もあったそうです。

高校卒業後は九州の大学に進学し、現在は就職していますが、妹への罪悪感から結婚をすることが億劫になっているようです。

遺族や関係者は辻菜摘からの謝罪を待っている?書籍謝るなら、いつでもおいで 佐世保小六女児同級生殺害事件』

辻菜摘さんは事件後に施設に入って以降、遺族に対して手紙を書くことは1度もありませんでした。

遺族と向き合おうとしない辻菜摘さんに対して次男は、

「もし彼女が謝罪に来るのなら、会うのが怖いという感情は僕にはない。

きちんと会うべきだと思う。僕も相手も、対等な関係で。

自分のしたことを全く理解できていない当時に謝られても、どう思えばいいか分からないけれど、自分がやったことが分かっているはずの今、きちんと謝ってほしい

その方が、スッキリする。

逆に、施設から出た後に、会わせられる状態にないというのなら、それは国が再教育に失敗したんだってぐらいに僕は思っています

とコメントし、施設を出た後のタイミングでも良いから謝罪に来て欲しいと呼びかけていました。

しかし、辻菜摘さんは施設を出た後に遺族に会いに行くこともなく、”本当に反省しているのか?”と疑問の声が上がっています。

被害女児の父親の直属の部下だった毎日新聞記者の川名壮志さんは、2018年に『謝るなら、いつでもおいで 佐世保小六女児同級生殺害事件』を出版しました。

著者のタイトルは兄の強い想いが反映され、「謝るならいつでもおいで」になったそうです。

本を出版することで、加害者へのアプローチになり、その後に迅速に謝罪まで進むと思われましたが、結局本を出した2018年から2023年現在の今まで、彼女は謝罪に訪れるということはありませんでした。

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