年上の女社長と付き合ってると言われたり、しょこたん似の年下に乗り換えたと言われたり、色濃い関係に関しては噂が多い米津玄師さん。

一部ネットでは昔の彼女が死んでしまってるような噂まであります。

米津玄師さんの言及などを聞いてる限り、基本的にそのような過去はなかったはずですが。

なぜ、今になってそのような噂が出てしまったのか、自分なりに調べてみました!

目次

名曲「Lemon」の歌詞が「大切な人の死」がテーマ

正直、この噂はこの曲の解読が主な理由だと思っています。

この「Lemon」という曲は石原さとみさんが主演を務めたドラム「アンナチュラル」の主題歌です。

この「アンナチュラル」というドラマの内容に、「死」をテーマに扱ってる部分があるため、主題歌「Lemon」が物語を大きく膨らませる要因となっていました。

曲の歌詞の中には、いなくなってしまう人へのメッセージ性が強く出ているので、

「きっと米津玄師も過去に彼女が死んだんだ!」と勘違いを起こしてまったようです。

実際には、米津玄師さんが昔の亡くなった彼女のために書いた曲ではありません。

「彼女が死んだ」は良い誤解?

ツイッターやブログでもこの曲の歌詞の解読がされていますが、やはり「いなくなってしまう人」への意識が強いです。

きっともうこれ以上 傷つくことなど
ありはしないとわかっている あの日の悲しみさえ

あの日の苦しみさえ
そのすべてを愛してた あなたとともに
胸に残り離れない 苦いレモンの匂い
雨が降り止むまでは帰れない
今でもあなたはわたしの光

暗闇であなたの背をなぞった
その輪郭を鮮明に覚えている
受け止めきれないものと出会うたび
溢れてやまないのは涙だけ

ドラマと主題歌を重ねて見てしまうのは仕方ないことですが、歌手自体と曲をここまでがっつり重ねて見られるのは珍しい例ですね。

ドラマ、紅白の視聴率に続いてオリコンでもYouTube再生回数でも圧倒的な記録を見せたシングルだけに、この誤解は良い意味があると思います。

それだけ真剣にドラマと曲にのめりこんだ人が多かったということですから。

米津玄師の現在の彼女は年上事務所社長説が強い

過去に米津玄師さんがどんな女性と交際されてきたのか、公には公開されていません。

あまり表舞台には派手に登場するタイプではありませんし、遊びまくってるような評判も聞きませんでしたから。

ニコ生で活動してた時代に、かつて米津玄師さんのファンであった日南さんと関係があったという噂もありますが、時期的に不自然な点が多いので信じられません。

何よりも、現在の米津玄師さんの彼女だと噂されている女性は、彼が20代前半の頃に出会っています。

実際には米津玄師さんも女性も自ら交際を宣言していませんが、週刊誌が実家を突撃した際には、米津玄師さんの両親から本当であるかのようなご返答を頂いたそうです。

その彼女とはもともと所属してた会社を移籍し、その後独立して事務所を立ち上げるなど、人生をかけて米津玄師さんに尽くしてる女性です。

米津玄師さんもその彼女に感謝をする形で、彼女への愛を曲に反映させていると言われてます。

年上彼女との交際が本当なら死んだ彼女などいるはずない

ずっと、その女性との愛を育んできたと考えると、亡くなった彼女がいたとして、その時期は学生時代しか考えられなくなります。

最近、学生時代の米津玄師さんについて同級生が言及する記事が週刊誌から出ました、

その同級生からは当時から彼女がいたような証言はありましたが、その彼女が死んだようなことは書かれていませんでした。

高校2年のとき、修学旅行は北海道のスキーを選択。「運動神経はイマイチだった」という証言もある。高校の文化祭では、「Toy Circus Show」というバンドを率いた。ちなみに高校時は、彼女持ちだった。引用元:ライブドアニュース

米津玄師さんは子供の頃に傷心を抱え、精神的に辛かったことを明かされていますが、青春期に彼女を失くしたような発言はありません。

米津玄師は死や別れをテーマにしか曲が得意?

米津玄師さんの作る曲は明るいポップな曲が多いように思えますが、切なさや侘しさを表現した曲も多いです。

明るい面と暗い面のギャップがあるのが米津玄師さんの音楽性の魅了でもあります。

実際に米津玄師さんの音楽を聴いて、死んだ家族や昔の恋人のことを思い出す方は多いみたいです。

なぜ、米津玄師さんの曲は人の心に触れるのか。

ただ歌詞が良いだけでなく、作るメロディラインが言葉に合っていて、しっかりと音と重なって絵が見えるような感覚があります。

それは、一度は精神的にどん底を味わった米津玄師さんだから感じることのできる感覚であって、それを音と言葉にする才能があるということでしょう。

素の自分は他からの寄せ集めの集大成?

それでも、米津玄師さんは、「素の自分」は存在せず、自分も含めて世の中の作品は偽物だらけだという持論を持っています。

自分の感覚も、きっとどこからか影響を受けたものの集大成でしかないと。

過去にインタビューで興味深い発言をされてました。

ありのままで生きていても面白いことなんてひとつもない。自分がありのままだ、本物だ、と思うパーソナルな部分も、もとを正せば誰かからの影響を受けていて。そういうことを言い始めると、オリジナルだとか本物だとか、そういうものは端から存在しなくて、自分は偽物だと思うんです。俺はそれが一番美しいと思ってやってます。

美しいものって、分析して、勉強していった結果、身につくものだと思うんですよね。それをよく理解しないで、“ありのままの自分”とか“素の自分”って気持ちいい言葉でごまかして、自分がどこから生まれてきたのかを考えない。「つまんねぇな」って思います。「“素”って何だよ?」って。

特に「オリジナルや本物は端から存在してない」という言葉が印象的です。

この言葉を聴いてる限り、米津玄師さんは才能よりも勉強家・努力の人ということになるのでしょうか?

どういう方向に興味を持ち、何を探し続けたのかという点で、米津玄師さんの生きてきたセンスが曲に現れているということになります。

そこで別れた死別を連想される曲が得意というところに帰りますが、もともと文学的に寂しさや寂しさを表現する言葉にアンテナを張って、それを吸収してアウトプットし続けたという見方もできますね。

なぜ、そちらにアンテナが向いたかと考えれば、やはり米津玄師さんの人生や生き方があったからだと考えると、結局は米津玄師さんの曲は彼のモノ。

でも詳細にいえば吸収したモノのアウトプットでしかないということですね。

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