現在、無敵の人気を誇る米津玄師さん。
もともとはネットでボカロ系の音楽を公開していた方ですが、そのルーツは中学生の頃までに遡ります。
そもそも米津玄師さんがどんな場所で生まれて、どんな幼少期を過ごして、そしてどんな青春を送ったのか気になります。地元は徳島県の徳島市らしいのですが。
出身が津田小学校という所なので、
地元近所は津田町か新浜町辺りだと推測できます。
目次
米津玄師の地元の徳島市ってどんなところ?
米津玄師さん以外の徳島市出身の著名人といえば、俳優の哀川翔さんです。
阿波踊りの伝統文化が宿る地域で、年に数回に大規模な祭りが行われ、その際は地元は大盛り上がりだそうです。
過去に米津玄師さんもファンに地元について聞かれ、阿波踊りの祭りがある時期のみ楽しい場所で、それ以外はつまらない場所だと仰ってました。
実際には山や海もあり、山登り・フェリーなどアウトドアな遊びもできる土地です。さらには動物園もあり、市内には大きな公園がいくつもあります。
きっと米津玄師さんも子供の頃にお母さんに連れて行ってもらってたのではないでしょうか?
幼少期の頃に口を怪我してしまい、その後に会った幼稚園の友達からの視線が辛く自閉症になってしまったというエピソードもあります。
実家の家族は4人で、お父さんはコンピューター関係のお仕事をしてたそうです。父は酒癖、金遣い、女癖が悪く、祖父が自分を育てたとインタビューで語っています。
そんな祖父のために作った曲が「LEMON」だったのです。
そして祖父の命日が前年の大晦日だったということが、2018年の紅白歌合戦に出場した理由だったのです。
小学生の頃は絵を描くのが好きで、どちらかというと、音楽家よりも漫画家に憧れていたそうです。
米津玄師の出身中学・津田中学(徳島)時代にボカロを始める?
米津玄師さんの出身中学は、地元・徳島の徳島市立津田中学校です。
彼が入学したのは2003年4月で卒業したのは2006年の3月ですね。
徳島市立津田中学校の住所は〒770-8004徳島県徳島市津田西町2丁目2−14なので米津玄師さんの実家もこの住所から近いと推測できます。
部活動はテニス部に所属していたそうです。今の肺活量があるのは当時の部活の恩恵でしょうか?
当時は友達が少なく、休み時間は音楽を聴きながら宮沢賢治の本を読むのに没頭してたそうで、クラスがうるさい時に怒って机を叩いて教室を出で行ってしまったこともあったそうです。
中学2年生の頃からパソコンで音楽を作る遊びにハマったそうです。最初に作った曲は「えのぐの歌」という曲でした。
打ち込みだけでなくギターも弾き始め、地元の幼馴染とバンドを組んでました。米津玄師さんは当時から歌が上手くボーカルも担当してたそうです。
中学3年生の頃にはマルチトラックレコーダーを使用して作曲し、本人は当時を振り返って「悶々と生きていた」と話しています。楽器を使って作曲しても納得いく曲ができないということで、この頃から打ち込みの方が好みだったそうです。
当時聴いてた音楽はバンプ、アジカン、RAD、スピッツなど、邦楽ロックが中心でした。洋楽やジャズなどを好んでるイメージがあるので意外です。
中学生の頃から、現在の米津玄師さんの基礎ができていた感じですね!
高校時代の米津玄師(徳島商業卒アル)
米津玄師さんの高校時代の関しては、以前に別の記事で書きました。
高校時代にバンドを結成し、大きなオーディションに参加しますが、二次審査で落選。文化祭で演奏したり、地元のライブハウスで演奏したりしますが、米津玄師さん的にバンドでのライブはあまり楽しくはなかったと。
それでも当時のバンド仲間曰く、高校時代の米津玄師さんは自信家で希望に溢れいていたそうです。
この頃のプライベートな写真がないのも、当時から米津玄師さんが将来的に絶対に売れるという自負があって、意図的に写真撮影から逃げていたからだそうです。
高校の頃にはすでに音楽中心の生活で、学校の休み時間もずっと一人で音楽を聴いてたそうです。
自宅近所の音楽店に入り浸り、家に帰ったらひたすら曲や映像の編集をしてたそうです。
この時期からネットでの活動もしていたそうで、専門学校に進学した後の活動も、この頃に基礎が出来上がっていたと思われます。
米津玄師が大阪芸術大学美術専門学校を中退した理由
2009年4月に大阪芸術大学付属大阪美術専門学校・総合デザイン学科・イラストレーションコースへ入学し、2010年3月に中退します。
同校はグラフィックデザイナーやコミックアート、漫画家やアニメーターを育成する専門学校です。
所在地は、〒545-0003大阪府大阪市阿倍野区美章園2丁目23−9です。
そもそも米津玄師さんが大学ではなくて、
芸術の専門学校に進学した理由は、
母親が美術系の専門学校に通っていたことが影響しているんだそうです。
そして、僅か1年ですぐに中退してしまった理由は、
「授業がつまらなかった」ことが理由だそうです。
当時に米津玄師さんは真面目に授業を受けずに、休憩場で卓球やモンスターハンターなどゲームばかりしてたみたいです。
噂では米津玄師さんのお母さんが専門学校の美術の先生をしていたことも関係してるとか。
専門学校に通ってた時期の「ハチ」としての活動
当時、映画化されて話題になっていた漫画NANAですが、米津玄師さんは主人公の女の子ナナのあだ名である「ハチ」から取って、「ハチ」という名義でもネットで活動されてました。
漫画の中では主人公の女の子が人懐っこくて、犬っぽいことから犬の名前に付けがちな「ハチ」があだ名となったという背景がありました。
一方の米津玄師さんは決して人懐っこいキャラクターではなかったので、その名前を決めた理由に深い関連性や理由はなさそうです。
その時期がちょうど映画「NANA2」が話題になった直後の2009年でしたが、リアルタイムではないです。
米津玄師さんの姉が好きな漫画だったからという説が強いです。
割と適当な理由で「ハチ」の名前を使っていたと思われます。
この「ハチ」名義でニコニコ動画に投稿し始め、本格的にネットで注目を浴びるようになったのです。