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RADWIMPSの野田洋次郎さんの魅力といえば、文学的な歌詞と個性的な言い回し、そして帰国子女らしい独特な感性です。

学生時代は勉学の方でも力を見せ、桐蔭学園ではバンドで忙しくなる前は2000人いる学年中20位の好成績を残しており、さらには3年生からバンドを休止して勉強に励み、慶應に合格したというエピソードもあります。

慶應に在籍してたということで野田さんの偏差値の高さは証明されていますが、実は一部慶應生の間ではSFC(野田氏出身の湘南藤沢キャンパス)を純粋な慶應と認めない層もいるのです。

一般的な大学を出てる人からすると意味の分からない風潮ではありますが。

野田洋次郎が入学したSFCは純粋な慶應ではない?分校扱い?

そもそも慶應義塾大学ほど慶應の血の濃さが気にされる大学はありません。

例えば、「慶應ボーイ」という言葉がありますが、実はあの言葉は慶應の大学に在籍する学生のことを指しているのではありません。

慶應ボーイというのは、慶應系列の幼稚園、小学部、中学部、高校を経て大学に進んだ生徒のことを指しているのです。

つまり、高校が慶應でない時点で、慶応に合格して入学したとしても、慶應ボーイとはならないのです。

慶應義塾大学に進学した学生の中では、純粋な慶應ボーイとそうでない学生との間の格差が気になるという方が多くいます。

慶應は同じ学生の間でも色々と複雑な格差・構図があるようで、そこで新しくできた湘南藤沢キャンパスですから、当然、全く同じような扱いはされません。

見下されているということはないですが、自分らと違うカラーの場所、もしくは分校的な存在として認識してる慶應ボーイがそれなりに多くいるということです。

高校時代の成績が悪く、三田や日吉のキャンパスではなく、慶應の高校出身なのに湘南藤沢キャンパスに行くことを「飛ばされた」もしくは「左遷された」と表現する方もいるぐらいです。

もちろん、ずっと慶應系列から大学に行く学生ばかりではないので、ごく一部も考えではあると思いますが。

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ビリギャルもSFCだったオチに慶應生が反応?

少し前に「ビリギャル」という、成績の悪いギャルが短期間勉強して慶應に現役合格したという実話を元にした作品がヒットしました。

しかし、あの作品は慶應生の間ではそこまで評判は良くはありません。

その理由というのが、そのビリギャルのモデルになった女性が進学したのがSFCだったからです。

さらには高校はそこそこ偏差値の良い進学校だったという背景も発覚しており、なんとも複雑な。

また、彼女の所属していた広告系のサークルがその後に女性学生に対して警察沙汰を起こしたというのもありますね。

SFC +某サークルの組み合わせだったのですから。

また、ロンドン五輪で金メダルを獲得した水泳の立石諒選手も、現役の慶應生でありながもSFCだったということで、大学内ではそこまでスター扱いをされなかったというエピソードもあります。

それでも結局SFCだって素晴らしい大学!

SFCを色眼鏡で見るのは、あくまで慶應内の一部の気取った方々。

一般的に見れば、SFCだって立派な大学です。誰でも入れる場所ではありません。

偏差値で言えばマーチよりも上ですし、世間的には慶應として見られるのですから。

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野田洋次郎がSFCを卒業せずに中退した理由

桐蔭学園在籍中の野田洋次郎さんは、3年生になると受験勉強を理由にバンド活動を休止します。

そして、大学合格を機に再び活動を再開します。

慶應に在籍してまま売れていれば、メディアでかなり大きな話題になっていたと思いますが、野田さんは大学を中退してしまいます。

当時のラッドは高校時代は同年代の間で有名で、それなりにお客さんもいたみたいですが、ほとんどが身内が中心だったそうです。

大学で一気に売れたいと決心した野田さんは、バンドのために慶應を中退するという一大決心を決めたのです。

高校時代から音楽で飯を食うことを意識していたそうですが、その決意は大学でさらに強くなったそうです。

高3の秋頃、バンドを一時中断していよいよ切羽詰まり、勉強をはじめた。高卒で無目的に社会に乗り込む勇気もなく。大学に奇跡的に合格し、いざ入学式の日、駅を出てサークルや多種多様の企業勧誘、何千人とあふれかえる人の群れに気され、門の前で引き返した。19歳でデビューが決まり、大学は中退した。引用元:ヤフーニュース

というよりも、19歳でメジャーデビューが決まってから大学を辞めたそうです。

デビューして中退するまでの親との関係

過去にある週刊誌が野田さんの母親が高校時代から大学中退後まで活動を支えたとお坊っちゃまっぽく書かれていましたが、実際はかなり大変だったそうです。

特に父親との関係はかなり特殊だったみたいです。

 幼い時は父が家にいるのが少し怖かった。常に緊張して、会社に行っている時は心が休まった。怒ると手も出す人だった。なんというか、「最後の昭和の父親」みたいな人。殴られたりしなくなったのは、恐らく僕のほうが身長を追い抜き、力でも圧倒的に強くなった頃だろう。

 僕は結局、一度も反撃をすることはなかった。それが果たして良かったのか、悪かったのか。殴り返すかわりに、家の2階から飛び降りたり、運転している車から飛び降りたりした。怒鳴どなられるたび、傷つけられるたび、「なんで僕を生んだの?」と思った。逃げ方もわからず、そういう行動を取ってなんとか保っていたんだろうと思う。

 20歳を超えて親に会った時、「僕はあなたの子供に生まれてきたのがずっと嫌だった」と伝えた。すると父は「俺もいきなり親になって、どうしていいかわからなかった」と言った。本音だったと思う。自分を棚にあげて、絶対者としての「親」を作り上げないと不安だったんだろうと思う。自分が親になる時、同じように僕も苦悩するんだろう。

 そんな親だけど、今ではすっかりおじいちゃんになり、丸くなり、会えば気さくに話せる関係だ。とても感謝している。引用元:読売新聞

父と母に愛されてちやほやされながら育ったと想像していましたが、実際は殴られたり、色々と大変だったみたいです。

桐蔭学園という特殊に学校に入っていたこと、帰国子女であることも兼ねて、数奇な人生であると。

 

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