60年代からイギリスで活躍し一世風靡した「スペンサー・デイヴィス・グルーブ」。
バンドはその名の通り、スペンサー・デイヴィス氏が中心になって結成されたグループでした。
現在では、あまり名前を聞かなくなったスペンサー・デイヴィスですが、2020年10月19日に亡くなられていたことがわかりました。
目次
スペンサー・デイヴィスの死去。死因は肺炎
スペンサー・デイヴィス・グループの創設者として知られるスペンサー・デイヴィスさん。
スペンサー・デイヴィスさんは10月19日に肺炎の治療を受けている最中に亡くなりました。
享年81歳でした。
すでにスペンサー・デイヴィスさんの代理人がBBCに認め、公表しています。
代理人の追悼のコメントが、スペンサー・デイヴィスさんの死去の知らせと共にYahooニュースに流れていました。
故人と30年以上の付き合いだった代理人のボブ・バークは、スペンサーについて「非常に倫理的で、才能に満ち溢れており、素晴らしい心を持ち、大変に知的で、寛大な人だった。彼には長年のパートナーであるジューンと3人の成人した子供たちがいた。寂しくなるだろう」と振り返っている。引用元:Yahoo!ニュース
最愛の嫁と、3人の成人した子供、最後まで家族に恵まれていたそうで、良かったですね。
スペンサー・デイヴィスさんの私生活などは、日本からだとなかなか知ることができませんから、安心しました。
スペンサー・デイヴィスの経歴・プロフィール
スペンサー・デイヴィスの出生は英国ウェールズ南部にある第二の都市スウォンジー郊外の、ボン=ア=マイでした。
学生時代のスペンサー・デイヴィスは成績優秀でした。
16歳で就職資格試験に合格し、10代にしてロンドンで公務員の職に就きました。その頃、バディ・ホリーのカヴァー“Oh Boy”と“Midnight Special”をSP盤で制作、初めてのレコーディングを経験しました。
その後にスペンサー・デイヴィスは地元に戻り、再び学業を積み、主席で卒業。さらに1960年からはバーミンガム大学でドイツ語や他国言語を専攻し、視野を広げました。
公務員として仕事をしながら音楽活動もしていたスペンサー・デイヴィスですが、学業の傍らでも地元のパブで音楽活動も続けていました。
その時期、クリスティン・パーフェクトとフォーク・デュオを組んだり、イアン・キャンベル・トリオとセッションをすることもあったそうです。
頻繁に通っていた地元のパブ「ゴールデンイーグル」で、ピアノをプレイする少年に出会い、スペンサー・デイヴィスはその子供と音楽に惚れ込んだのですが、その少年こそが、スティーヴィ・ウィンウッドです。
その少年と一緒にバンドを組むことを提案し、スティーヴと彼の兄マフ・ウィンウッド、ジャズバンドでドラムズであったピート・ヨークを加え、1963年4月に「リズム・アンド・ブルーズ・カルテット」を結成しました。
結成した「リズム・アンド・ブルーズ・カルテット」はパブなどで地道に活動。徐々に人気者となり、1964年2月には大型フェス「ファースト・リズム&ブルーズ・フェスティヴァル」への出演を決めました。
フェス出演した同年にアイランド・レコードと契約を交わし、「スペンサー・デイヴィス・グループ」と改名しました。
1965年には、ファーストアルバム『ゼア・ファースト・LP』(- Their First LP )をリリースしました。
最強だった60年代
1966年9月以降、スペンサー・デイヴィス・グループは全英チャート上位の常連でありました。
1966年初めには『ゼア・ファースト・LP』と『セカンド・アルバム』(The Second Album)アルバム2枚が同時にトップ10入り、「Keep On Running」と「Somebody Help Me」は2枚連続でNo.1と、この時期を皮切りに大化けしました。
その後、 “When I Come Home”が全英チャートに上り始め、12位までを記録。ほぼ同時に3枚目のアルバム『Autumn ‘66』が1966年9月11日に20位にチャートインしました。
10月に最高4位を記録し、全英トップ10に8週間チャート入りしました。
この当時のボーカル・スティーヴィ・ウィンウッドのイケメンぶりがすごいです・・。
1967年にもシングル“I Am A Man”などが大ヒット。“Gimme Some Lovin’”はアメリカのビルボード・チャートでも7位まで上昇しました。
ミュージカルコメディ映画『The Ghost Goes Gear』で主演まで務めるなど、活動の幅を広げました。
しかし、1967年の全盛期に、スティーヴとマフのウィンウッド兄弟が脱退。その後は代わりのメンバー探しで苦労することになりました。
スティーヴとマフのウィンウッド兄弟が脱退、そして解散へ。
その後のスペンサー・デイヴィス・グループは、新たにフィル・ソウヤーとエディ・ハーディンを加え4名に。
1967年に映画のサントラ盤『Here We Go Round The Mulberry Bush』の音楽に携わり、7曲を提供しました。
しかし、今度はフィル・ソウヤーが脱退。それに伴いレイ・フェンウィックが新たに加わりました。
1968年にアルバム『With Their New Face On』をリリースしましたが、全盛期ほどヒットはしませんでした。
そして、ヨークとハーディンがデュオとして活動を開始。そのため、スペンサーは新メンバーを探し新アルバム制作を試みますが、リリースすることはできませんでした。
そして、翌1969年、スペンサー・デイヴィス・グループは解散しました。
スペンサー・デイヴィス・グループの解散の後
スペンサー・デイヴィス・グループが解散した後も、スペンサーは持ち前のポテンシャルの高さで見事な立ち回りをします。
スペンサーはアメリカに渡り、カリフォルニアで新たにバンドを組んだり、音楽プロデューサーやA&Rの仕事をしていたそうです。
そして、6カ国語に精通していたということで技術翻訳の仕事などもしていたようです。
スペンサー・デイヴィスの現在。最近までの音楽活動
アメリカで我が道を行ったスペンサーでしたが、1973~74年にはピート・ヨーク、エディ・ハーディンにベーシストのチャーリー・マックラケンを加えて、スペンサー・デイヴィス・グループの再結成を果たしました。
1973年『Gluggo』と1974年『Living On A Back Street』のアルバム2枚をリリース。が、もちろん66年のような大ヒットは記録しませんでした。
グレイトフル・デッド、ゲイリー・USボンズ、ブルース・スプリングスティーンなどのライブにゲスト出演も果たしました。
1993年には元アイアン・バタフライのマイク・ピネラや、元シュガーローフのジェリー・コルベッタらとクラシック・ロック・オールスターズを結成、約2年間活動しました。
1996年秋にはカーマイン・アピス、デニー・レイン、ランディ・マイズナー、マイケル・モナークらとワールド・クラシック・ロッカーズを結成している。
1997年にはソロアルバム『Keep On Running』をリリースしました。
2000年代もスペンサー・デイヴィス・グループなど地道な音楽活動を続け、2008年には全曲書下ろしによるソロアルバム『So Far』をリリースしました。
2010年代以降は、特に目立った音楽活動はしていなかったようです。