先日亡くなられたロック歌手で俳優の内田裕也さん。
昨年2018年の9月に長年連れ添った嫁の樹木希林さんを亡くしたばかりでした。
後を追うような形で天国に旅立たれたという点、平成最後のシド&ナンシーのようです。
夫婦でありながらも老後は極端にツーショットの少なかった内田裕也さんと樹木希林夫妻。近年は仲良くしてたみたいですが、基本的には謎の距離がありました。
それでも若い頃の内田裕也さんと希林さんはラブラブな振る舞いで周囲を沸かし、とても新婚とは思えない写真なども発掘されています。
目次
内田裕也と樹木希林の若い頃の写真がロック!
内田裕也さんといえば、近年はロックな男として知られてますが、実際に彼の音楽を知ってる人は少ないです。
しかし、若い頃の内田裕也さんはしっかりとロックミュージックをリリースしヒットさせています。
ただのロックな格好ばかりが好きな不思議な人のように思われがちですが、実際にロックスターであったのです。
若い頃からアメリカに渡って本場のロックに触れました。あまり公にはなっていないですが、海外の著名なロックスターとも面識を持っています。
日本で初めてロックフェスを開催した男として知られ、とんでもない赤字を作りまくったことでも知られます。
英語が達者でない時期での渡米、前例がないフェスの実現など、後のことを考えずに積極的に動き回ってたのが若き日の内田裕也さんです。
内田裕也の若い頃のエピソード
最近までの内田裕也さんは世間からネガティブな印象を持たれがちでした。
やはりあの歳になっても警察のお世話になったり、音楽面での貢献を知らない若い子からすれば「なんだ、あの人は!?」って感じだったでしょう。
でも、音楽をしていた若い頃のエピソードを知れば、不器用に真っ直ぐ生きた内田裕也さんの内面が知れて好きになるかも知れません!
大学を中退し50年代にバンド結成
内田裕也さんは元々勉強のできる若者でした。
しっかりと大学にも進学し、余計なことをしなければ普通の会社員としての夢も掴めたことでしょう。
しかし、少年時代からすでに海外のロックスターに魅入られていた内田さんは、大学を中退し、当時の日本ではメジャーでなかったロックバンドを結成したのです。
1957年頃にロカビリーバンド「ブルー・キャップス」を結成、1958年には「ブルージーン・バップス」を結成し、大手芸能事務所・渡辺プロダクションに所属して日劇ウエスタンカーニバルへ出演を果たしました。
1960年代では日本でもビートルズが流行り、ロックバンドの形態も受け入れられられました。
1966年のビートルズの来日コンサートでは内田裕也さんのバンドが前座を務めたのです。
日本のロックミュージックの先人として、当時から「日本ロックのドン」と呼ばれていました。
バンドマンとしてアクティブに動いてた時期のことはあまり知られてないですよね・・・汗。。
1977年に大麻所持で逮捕し肯定し続ける
昨今では海外で合法にするかしないか揉めてるあのブツ。
日本では著名人が肯定的に発言することはタブーとされています。
しかし、内田裕也さんに限っては半世紀前からずっと肯定派の意見を続けています。
1977年にあのブツを所持していたとして逮捕されていましが、釈放された後のインタビューで「酒よりも人を幸せにする」と異例の肯定した発言をされました。
それでも、その後は同じ理由で逮捕されることはなかったのです、法律でダメなものはダメとして割り切ってたようです。
自分の意見を持ちながらも、しっかりとルールに沿って生きてく感じがかっこいいです。大人のロックです。
俳優として渋い演技で人気に!
内田裕也さんは音楽活動からキャリアを始めましたが、演技力にも定評があり、俳優としても活躍されました。
60年代から70年代の出演作には、
「素晴らしい悪女(1963年)エレキの若大将(1965年)クレージーだよ奇想天外(1966年)お嫁においで(1966年)パンチ野郎(1966年)リオの若大将(1968年)コント55号 世紀の大弱点(1968年)恋のつむじ風(1968年)昭和元禄 TOKYO・196X年(1968年)ザ・タイガース 華やかなる招待(1969年)ドリフターズですよ! 特訓特訓また特訓(1969年)ドリフターズですよ! 全員突撃(1969年)野蛮人のネクタイ(1969年)キャロル(1974年)炎の肖像(1974年)不連続殺人事件(1977年)実録不良少女 姦(1977年)新宿乱れ街 いくまで待って(1977年)最も危険な遊戯(1978年)エロチックな関係(1978年)桃尻娘 ピンク・ヒップ・ガール(1978)餌食(1979年)スーパーGUNレディ ワニ分署(1979年)夢一族 ザ・ライバル(1979年)」
など、多数の映画にて主演級の抜擢がされ、個性は俳優としても名を轟かせたのです。
バンドマンとしてビートルズの前座を務め、俳優業でこれですから人気者だったことは疑いようがないですよね。
濡場シーンを断った女優に喝!
俳優としても成功されていた内田裕也さんは、80年代ではすでにトップ俳優の域に。
1980年に公開された映画「水のないプール」でも主演を務めました。
が、当時はキャスティングのことである女優が揉めたそうです。
当時、主演女優の候補になっていた高畑淳子(ねりか役)さんが、映画の中で脱ぐシーンがあると知ると、それを拒んてしまったのです。
そのため、ねりか役は高畑さんから中村れい子さんに代わるという事態になってしまったのです。
この件に関して内田裕也さんは、
「会ったら蹴っ飛ばしてやりたい」といまだに許してない胸の内を明かしてます。
こういう話を聞いてると、作品のためにどんなことでも頑張った樹木希林さんに惚れてしまった裕也さんの性格が見えますね。